中央大学で、映画『ワース 命の値段』公開記念シンポジウムを取材した。
その数日後に、今度は
上智大学で、映画『NEWTOK』を見て、オープンフォーラムを聴いてきた。
いずれも補償に関係する映画だった。
それにまつわる分断も描かれていた。
前者は9.11という未曾有のテロの被害者、
後者は地球温暖化(による凍土融解)の被害者
が対象であり、悲しみの背景は全く異なるけれど、
一人の力ではどうにもできない悲しみを抱える人々を
社会として、どう支えるかを考えさせられる映画だ。
大切な人を失った痛みや、
愛着のある土地を失う痛みは、
お金や新しい家をもらっても
きっと癒やされない。
しかし、少しでも慰めようと奔走する
弁護士や政治家やリーダーたちがいる。
映画ワースのシンポジウムでは、
主人公の実在のモデルである弁護士が
ビデオメッセージで登場し、日本で法学を
学ぶ学生たちに向けて、福島のことを語った。
(映画公式サイトに当日のレポートあり。)
映画NEWTOKでは、アラスカの凍土に
立地するニュートックという町が、
温暖化と海面上昇で徐々に消えていく。
移転に涙する人々。この映画を見ていて、
町ごと移転した双葉町のことを思い出した。
いずれも米国の映画だが、そのテーマは
3.11と大きな原発事故を経験した日本にとって
とても身近だ。
東電の「処理水」放出開始も近付いている。
これも反対派は風評被害を心配しているわけで、
被害が出てしまえば補償が問題になるだろう。
どちらかというと私は今まで市民側というか
補償を求める側の人たちを取材する機会が
多かった。しかし映画ワースは視点が逆で、
難しい補償額の決定を任される孤独な立場から
描かれている。だから何かと新鮮だった。
中央大学のシンポジウムで一人の法律家が
漏らした通り、命に値段は付けられない。
生存していたら得られたであろう金額を
参照するわけだが、映画では「一律にせよ」
という被害者もいたし、もっともっと差を
付けてくれ、という逆の圧力もあった。
もともと補償額には正解も不正解もない。
いろいろ各所から別々の意見を投げられ、
問題が残っていることを自覚しつつも、
なんとか期限内に手を尽くす。
福島を見るにつけても、スピード感は
とても大事。9.11後はそれが見事だった。
決定するのは非常に重たい大変な仕事だ。
公的な職に就く人々は、批判に耐えつつ
着々と厳しい任務をこなしている。
それはとても(真摯に職務に向かう限りは)
尊い仕事だし、皆で応援しようよ、と思う。
弱者である市民が強者を監視するのは
当然かつ大切なことで、ジャーナリストも
弱き者に寄り添うのが仕事なのだけれど、
まっとうな政治家や弁護士であれば、
やはり弱き者に寄り添うために仕事を
しているのであって、何でもかんでも
敵対すれば良いというものでもない。
権力側に付くという意味ではなくて、
理解に努め、人として対等でありたい。
立場は違えど、みんな人の子であり、
思いやりの心も持っているはずと信じて。
映画ワースでは、いわゆる反対派の
リーダーと弁護士が歩み寄ることから
事態が好転し、唯一の正解はないままに
少なくとも補償は滞りなく実行された。
双方の柔軟な姿勢と共通のゴールが肝だ。
こういう知恵に私たちも学びたいものだ。
それにしても、金目のモノが介在すると、
どうしても欲やら何やらがはさまって
感情が複雑に潜行しがち。
もらえる人、もらえない人の間で
分断が生じるのは各所で深刻な問題だ。
鉄道開通やダム建造に伴う移転、
そして立派な新しい家。中の人たちが
ハッピーかどうかは別として、
やっかみや、しがらみは付いてくる。
パートで収入を抑えている人が、
頑張って扶養の枠をはみ出た人よりも
税金面で優遇されるモヤモヤとか。
借金している人のほうが、老後を考えて
こつこつ貯金をしている人よりも
何かと公的に助けてもらえる仕組みとか。
この確定申告の時期に、ちょっと周囲を
見渡すだけでも、制度の矛盾がちらほら。
一律に決めた時点で、きめ細やかに
個人の事情に寄り添うことはできない
制度というものの限界を感じる。
いずれも誰かが悩みながら決めたルールであり、
完璧ではないのだから、大きな問題があれば
声を上げてみんなで修整していくしかないのだが。
どんなに工夫を重ねても、多少のしこりを残し
分断を生んでしまうのが「補償」なのだろうか。
正解がなくケースバイケースだからこそ、
法律家ではない私たちにも意見する余地がある。
いざ当事者になって頭を抱える前に、
考えるトレーニングをしておくと良いと思った。
―― というわけで、2本とも良作です。
今なら映画ワースは映画館で見られます。
パタゴニアの映画も上映会主催者を募っています。
ぜひ!